二ーチェはカプリで何をした?

Submitted by Cecilia Klynne on Tue, 2007-07-10 12:41.

Foto: Peter de RuFoto: Peter de Ru

ニーチェ(Friedrich Nietzsche)はなぜカリブに行き、何を見たかったのか?そして何を見たのか?

これは確かに二ーチェの一伝記の一番の謎で、それが基となり幾つかの多くの複合体を見出すのに相応する。そして、カプリでの旅は彼の人生と思想の転換点が融合し、地理的に北から南へ北欧から南ヨーロッパへ導き、この転換点を記述することが出来る。それに、このカプリの旅は転換点に中身を付けたのかもしれない。

二ーチェは1876-77年の冬から半年をナポリの南のソレントで過ごす。二ーチェは中年女性の友人マルウイダ・ヴォン・メウセンブ(Malwida von Meysenbug)とモラル哲学者パウル・レエ(Paul Rée)と関わりを持った。レエ・パウルと二ーチェは若いロシア人女性ロウ・サロメ(Lou Salomé)の是認により、良きライバルになる。そして共に執筆活動や読書、時には周りの観光名所に足を伸ばした。1877年3月のカプリへの旅は多分その様な旅だった。

二ーチェは退職し、拘束のない哲学者になる

私達はもうニーチェの人生の転換点と言った所に居る。彼は32歳だが、もう10年間古典言語学を専攻している。それに、動力がかかりすぎる専攻の仕事から退職することを後一年間決まった事に近付いて来た。それと引き換えに、人生最後の時期を考える人として活動し始め、これは1889年まで続いた。彼はこれから、言語学者を改め哲学者になった。“拘束のない哲学者”と“フギチヴウスエッランス”(fugitivus errans)は彼の言葉では考えの世界でも地理的な世界でも、国のない放浪している亡命者。ソレントはニーチェにとって初めて南ヨーロッパまでの訪れと初めて南の冬という意味を持っていた。

南ヨーロッパを発見する! それは、二ーチェ自身が発見をした100年以上前から北欧人が習得の旅を用いて行っていたことである。

ニーチェはゴェテェを憧れ、それにゴェテェは1786年から何年間続けて行ったイタリアの旅で発見した模範をニーチェに掲げた。

ゴェテェの場合、初めにローマでクラシックの文化を発見することだが、ナポリで本当の肉体的・自然的・自発的・具体的で危険な南ヨーロッパを発見する。前者達と同じ肉体的に起こされているのか。その答えは、はい!この時からニーチェの哲学の中では体が一番重要な基盤になる。つまり、もっと良く言うのなら、体と思考の繋がり、体と言語と表現と文章の間の繋がりがある。これは、体の哲学と倫理と美的さである。

カプリは南ヨーロッパだけではなく、南ヨーロッパより南であった。

だから、それでも島で見つけると思った反教化の保留地と比べたら、北欧人が思っていた自発的、危険、法律のない自然な状態のナポリは、まだかなり磨かれていて平凡だった。その真実の中には、この島は本土より貧しかったかもしれない。それに、南イタリアは一般的に物価が安いから、北欧人にも安かった。

本当の風景を見るのは簡単ではないが、それでも少なくともイタリアの周辺、と特にシチリアとカプリは1900年初頭まで現代のタイと同様であった。それに、何れでもカプリは長期間、出来る限り安い性行為の方法でも誘われていた。そこから現在の裕福なカプリへの道のりは遠かった。カプリのクラシックで有名な“ピアゼッタン”のコーヒーの一杯分はベネチアのマルカス広場と同じぐらい高く、それに道は売春婦ではなくアルマーニとグッチの店に囲まれている… 

ニーチェはソレントからカプリの先端のとがった輪郭を水上から眺めて、それに絶対にニーチェは、前後の複数の人と同じくその輪郭を竜か肉食鳥に比較した。これは確かに何かを飲み込む様な危険な一説を強化させる。おそらくニーチェは、ラテン研究者としてタキタス(Tacitus)とスエトニウス(Suetonius)を読んでチべリウス(Tiberius)皇帝の恐ろしいことを思い浮かべた。

結婚式、洞窟の中のミズラス崇拝?

ニーチェはジョビス邸宅の遺跡を見に行った事を想像してみよう。しかも、ニーチェは島の北側沿い、盆地へ曲りくねった途方もない崖の構成アルコナチュラレ(Arco Naturale)を通り、盆地の一番上がった所の真っ直ぐにありそれと同じぐらい有名なファラギオ(Faraglione)崖を通ってから直ぐにカプリ市へ戻る。盆地の一番下には思考を多く起こさせた洞窟を通った。それは、彼にとって壮観な徒歩の旅だっただろう。

ここではペルシアの太陽神がミズラスに生け贄の雄牛を捧げていると思われる浮彫を発見されていた。

洞窟の名はマグナムミットラエアントルム(Magnum Mithrae Antrum):またの名をイルミトロマニア(ill Mitromania)かマトロマニア(Matromania)と言う。そこでは、時々国民的にグロッタヂマトリモニオ(結婚式洞窟)に歪めた。そして、洞窟と結婚と生け贄という構成要素は出来たらチベリウスと結びつき、淫らな行為と乱暴さの想像をより膨らませるのには十分だった。しかし、皇帝は近づきにくいこの洞窟に行った可能性はそれほど大きくない。なぜなら、ペルシアの太陽神はカプリにある洞窟で儀式のように崇拝した可能性は低い(ローマに修正されたミズラス崇拝の例はあると言っても)。専門家達は洞窟が儀式に使用されたと賛成しているが、洞窟は多分女神を崇拝しローマの天女の崇拝場(nymfeum)と思われる。

この洞窟はソレントの次の年、1878年春ニーチェのノートに出現している。ここでは28巻の小冊子の中から17・22・25・34番の内容を引用している:

1. ミトロマニア ― 最初の太陽光線を待ち、結局見ることができた。その事に軽蔑して自我を全滅させる 
2. ミズラス ― 希望
ミズラス狂乱!
3.グロッタヂマトリモニオ、意識しない理想な人生図。
4.ミトロマニアを基盤として人生をパーチィーとして考える。

もう一つの覚書で、この接続に関連があることは33番:ニーチェはソレントの時期を開放と考えている:「僕はソレントで9年間のコケを肩から落とした。」

彼の教授的なコケは落とされた。残っているフリードリヒとはどういう人なのか?南にあるソレント、カプリの洞窟で新しいフリードリヒが微かに見えたのでは?

名前ミズラス・ミトロマニア・マトリモニオが記憶の中で遊んでいる。
この三列は神話の時代から歴史の時代からユートピアの時代まで行っている。この3人は神話の時代、歴史の時代からユートピアの時代まで続いている。暗闇から光。「最初の太陽光線を待ち」という文章はは、夜中で洞窟に行ったか、それとも夜中で洞窟に行き、日の出を待ち空想にふけたか?もしかしたら、生け贄の祝賀、日の出と共にに終わる乱交パーティーを考えていたのか。それとも待っている太陽神がいたのか?

ミズラスは希望も狂乱も導いている。

洞窟は暗闇と光の両方の意味に適する。チべリウスは同じぐらい二元的である。なぜかと言うと、行動は出来るが行動自体は狂乱である。彼の反対は考えているフリードリヒ自身:フリードリヒは認識を得る有能な人だが、狂乱は有能がある人に襲われるか。

結婚式洞窟で性行為の遊宴?

その洞窟は“無自覚の人生”について:生け贄が結婚で自己紹介するような理想郷田園風景。洞窟は “パーティー”の意味をなしているかもしれない。でも、洞窟でのパーティーは、フリードリヒにとって田園風景ではない。フリードリヒは自分の歴史の中に立っている、それに理想郷も神話もフリードリヒの“パーティー”に属していないといけない。
これは、自滅させる為の酒神祭、自分を忘れさせる為の酒神祭、全てのコケを落とせる為の酒神祭、そして自分を忘れたことで新たの自分を見つける。

洞窟は数年後『善悪を無効』(Jenseits von Gut und Böse)という格言55でまた現れる。ニーチェはここで宗教批判と知識批判が混ざり合い、“虚無”に“ニヒリズム的な” に興味を持った。ニーチェは人類の宗教歴史を何文でかに濃縮し、三つの生け贄を捧げた。そして神話から歴史へ。初めに一番優れた同類の人間を生け贄にし、それで次に自分の人間性を生け贄にする。そして最後の生け贄は神である。「虚無の為に神を生け贄にすることは ... 誰でも少し認識している。」昔、宗教崇拝者を生け贄にした例をニーチェがあげている事により、チべりウス皇帝がカプリ島のミズラス洞窟で行った生け贄を使うと述べている。そのことはローマの中でもっとも恐ろしい支離滅裂な事である。

洞窟、それは理想主義と歴史図の中で地位を得た

ニーチェはチべりウスがミズラス洞窟で生け贄を行ったことを疑わなかった。『もう一つのスエトニウスの後の変種はもちろん:性行為の遊宴。それは暴力を共通の特徴に使って生け贄と繋がれる。』スエトニウス(Suetonius)の後、もう一つの性行為の遊宴の変種であった。それは生け贄と繋がり、暴力を共通の特徴とする。しかし、生け贄か、チべりウスか、洞窟か、カプリか何が恐ろしいことでしょう? ニーチェはノートに時々見えてくる、“皆”が虚無の為に神を生け贄にささげること少し認識しているとという二重性は格言の最後まで溜める。

私達は人を生け贄にすることについて何を知っているのか。どうやってパーティーの瞬間自分を生け贄にし、自らがなった人から脱出する為、自らがなっている人になれる為、全てのコケを落とさせる。

カプリの洞窟についてのニーチェの最後の言葉である。将来、パーティー、理想郷ではなく、歴史の悪夢しか残っていない。これは彼の自由な哲学者としての数年間の腹立たしい考えの集中された形の全部はここにある。それは、本当の自己になる為に必要なのは全ての生け贄である。

メルベルグ・アーネ博士 (Arne Melberg)
オスロ大学で文学専門家