Foto: Peter de Ru
カプリは特にローマの皇帝時代を考えたら、チベリウス皇帝が島でのめり込んだ残酷な事と淫乱的な事を浪費した。
少なくとも歴史学者スエトニウス(Suetonius)とタキタゥス(Tacitus)の言っていることを信じるのなら。チベリウス皇帝は死ぬまでの10年間をカプリで過ごした。島は紀元前29年から皇帝の所有物であった。その時代、アウグストゥスはナポリ市と取引し、イシア(Ischia)島をカプリ島と交換した。チベリウスの支配下には多くの家が島にあった。その中で一番大きいのはマリナグランデ邸宅(Marina Grande)の西にあるパラッゾアマレ邸宅(Palazzo a Mare)、島の一番東の端にあるイオビス邸宅(Villa Iovis)それに北西にあるダメクタ邸宅(Villa Damecuta)である。
島にある複数の小さな家の中はカポヂモンテ邸宅である。アナカプリ(Anacapri)へ向かっている遺跡の階段(scala fenicia)が終わる方向に、サンミッシェル邸宅(Villa San Michele)が今も所在している。もしかしたら、皇帝が島に所有した小さな家の中の一軒だったかもしれない。ムンテ(Munthe)が書いていたサンミッシェルの本でブドウ園経営者マストロ・ヴインセンゾ(Mastro Vincenzo)は、古代遺跡を全部の土地から掘り起こす事は、多くの動力だけで出来た。ムンテは後でもっと古い遺跡を発見するが、後程にその場所の遺跡を壊す批判を受けた。
それに、ムンテが来る前、その古代の家がもう跡形もなく壊された可能性もある。しかし、ムンテは自身で見つけた遺跡を少しでも保存する為に頑張った。
カプリの初めての掘り出し物の多くは、高いお金で売れる遺跡などを手に入れる宝探しであった。
特に無名のオーストリア人ノルベルト・ハドラワ(Norbert Hadrawa)は、1700時代の終わりに行った“発掘”で複数のローマの家を略奪した。残念ながらカポヂモンテ邸宅がされたことは時代的なことである。ドォルフォ・ランチアニ考古学者(Rodolfo Lanciani)は、現代のローマでも新しい町を建設しながら、早いペースで遺跡所を略奪されたと述べていた。
[5]この家の前所有者について知っていることはムンテ自身からであることは問題である。それに、サンミッシェル邸宅にある真実は何だろう?ムンテも自分を信用されない事よりは期待しないと書いている。しかし、ムンテは通り話でマストロ・ヴインセンゾのブドウ園で“アウグストゥスの聖母の似顔”が写っているヂブスアウグストゥスパテル(Divis Augustus pater)と書いている印刷がある玉を発見されたと言うことは一つの面白い情報である。
この古代の場所はかなり広大に設立された可能性がある。学識のあるグイセッペ・フェオラ(Giuseppe Feola)とロサリオ・マンゴニ(Rosario Mangoni)はカポヂモンテ邸宅の周りに農業と建築の為の掘り出しで発見物を1830年から記録されている。カプリでの一番の考古学者アメデオ・マイウリは1930年代でカポヂモンテ邸宅はもっと大きなパラッゾアマレ邸宅のための“ルスチカ邸宅”(villa rustica)であろうという結論に辿り着いた。
“ルスチカ邸宅”は手伝い家のような、大きな家で使ったワインや油などの物作りである。
それに、この二軒の家は一緒の作り方をし、石工と狭い塀と比較的小さい部屋で建たれたという事で繋がっている跡もある。マイウリはで両軒をアウグストゥス時代に付ける。
ウプサラ大学古代ローマ、ギリシアの文化と社会活動学院のラグナル・ヘドルンド修士(Ragnar Hedlund)