ムンテと音楽

Submitted by Cecilia Klynne on Mon, 2007-09-10 01:55.

Kristian Möller: Foto: Peter de RuKristian Möller: Foto: Peter de Ru

ムンテの親戚の生活では、音楽はいつも心地良さに大事な部分であった。アクセル・ムンテ(Axel Munthe)自身も上手い歌手、評判の良いピアニストになった。ムンテは子供の頃ピアノのレッスンを受け、薬剤師の家族の環境は厳しくても良く音楽をやっていた。父フレデリックは吟遊詩人で、曲目の一覧にベルマン(有名な歌手と詩人)の『フレドマンの書信』とウェンナーベルグ(Wennerbergs)の『グルンタルナ』(Gluntarna)が入っていた。うわさにより彼はバイオリンも弾けた。母ロビサは子どもに賛美歌と精神的な曲を歌った。アクセルの姉アナも吟遊詩人の良い遺伝があった。

アクセル・ムンテは育てられた環境でゴーテ(Göthe)、シラー(Schiller)、ショベル(Shober)等が書いた歌詞でフランツ・シューバート(Franz Shybert)、ロバート・シューマン(Robert Schumann)、フゴ・ウォルフ(Hugo Wolf)の曲を知れた。そして、音楽の夜会はストックホルムの外面で、クメルネス湾(Kummelnäsviken)にある、親戚カール・ムンテ(Carl Munthe)が所有した別荘、ベアテベルグで行われた。そういう時でムンテ家族に自然な音楽の付き合いの中心点であった。バイオリン奏者、『音楽の学派』(Musikaliska Akademin)の頭取、そして上訴の裁判官ヘンリク・ムンテはカール・ムンテの父であった。この音楽の家で歌手ジェニー・リンド(Jenny Lind)は定期的にそこで時間を過ごし、それに自分のグランドピアノもそこで置いてあった。

アクセルはもちろんその事で音楽的な影響を受けた。その為、後で彼はビクトリア女王がカプリの個人的な付き合いでアクセルの伴奏者になった良い運があった。そして、国王のスウェーデンの夏の別荘、ソルリーデン(Solliden)とツルガーン(Tullgarn)でも同じ様な事になった。ビクトリアは子どもの頃、確りしたピアノの授業を受け、そしてすごい事は若い女の子としてフランツ・リスト(Franz Liszt)の“楽譜のページを変える人”になった。

アクセル・ムンテは時々アナカプリ(Anacapri)にある集会のサンタソフィア教会(Santa Sofia)のパイプオルガン弾きの事務をした。1889年4月19日、彼は恩人、パリの公使、外交官、“ざんげ聴聞司祭”、ゲオルク・シベルン(Georg Sibbern)に手紙で書く:

「ここに居る人々は精神的な虐待で生き、人間になりたがるだけだけど、道を導く人は誰も居ない。聖職者は特に貧乏人と人間同士への神の愛の言葉を理解できず、我が儘、信用出来ない人達である。それ以外、信じられないくらい無知である。私は彼らを良く知っている。祭りの日、教会でずっとオルガンを弾いてから帰ったばっかり。私は皆の考えで良い人として存在し、その面で良い地位を持つが、暴露した人だけは例外である。」

アクセル・ムンテは音楽を心に抱いた事は間違いない事であるが、彼は自分の方法でやっている。ベルリンの『スウェーデンの教会』(Svenska Kyrkan)の聖職者であったヘリベルト・ジャンソン(Heribert Jansson)教会区司祭は一度サンミッシェル邸宅で泊まった。彼が話す:

「昼間頃、音楽を弾いたり、歌ったりした。女王はサンミッシェルのチャペルにあるグランドピアノに座り、そしてムンテは美しい声で、例えば:ワグナー(Wagner)のオペラからのアリアやフゴ・ウォルフの『ゲサング・ウェイラス』(Gesang Weylas)で“Du bist Orplid, mein Land”を歌った。」

もしかして、自然な人として、自然にある音楽は彼に完全さをあげ、洞察を広げたかもしれない。

アンデルス・リンドストロム(Anders Lindström)