リルケはアナカプリを発見する

Submitted by Cecilia Klynne on Tue, 2007-07-10 12:34.

Foto: Peter de RuFoto: Peter de Ru

ロディン(Rodin)とパリで一緒に仕事をし、彼の為にも仕事をしたことがあったので、彼との関係が途切れた為、リルケ(Rainer Rilke)にとって1906年は大変な年だった。リルケは妻と子供と共にドイツに行ったが、家族との共存がだんだん苦痛となり、カプリへの誘いを受けた。またリルケは、好んで結婚の世話を手紙で行った様な印象を受ける。

招待はアリス・ファエーンドリッシュ(Alice Faehndrich)からであった。その時代、まだ村のようなカプリの面にあった中心部、“ピアゼッタン”のちょうど良い距離にあり、モーア風ヂスコボリ邸宅の所有者はノルデック・ズル・ラベナウ男爵夫人(Nordeck zur Rabenau)であった。リルケは大きな土地の一角にある小さな“薔薇の家”を借りることになった。彼は30歳の誕生日、それに着いた1906年12月4日から、1907年5月20日まで滞在した。また、1908年春の数ヶ月間にまたしばらくの間そこに戻った。ジュリエ・ヴォン・ノルデック・ズル・ラベナウ(Julie von Nordeck zur Rabenau)男爵夫人と若いマノン・ズ・ソルムス-ラウバッハ伯爵夫人(Manon zu Solms-Laubach)。

リルケの貴族で名の長い女性と密接の縁ができる能力にいつも驚嘆させられる! 

カプリで深い関係になりそうな女性は、グードルーン・ヴォン・ウエッキュル(Gudrun von Uexküll)である。リルケはグードルーンとよく文通をしていた;アリス・ファエーンドリッシュの近い親戚でヂスコボリ邸宅の相続人になる。そして彼女は、アクセル・ムンテ(Axel Munthe)の『サンミッシェルについての夢』をドイツ語に翻訳し、年老いたムンテの手伝いをした。ムンテが亡くなってから、ムンテのもうけた著作権を受け継げた。また、リルケは1907年の3月某日、ムンテと出会いサンミッシェルを見せてもらった。

転向

リルケは妻に書いた手紙により、カプリへ対して批判的な考えを持ち際立った。「私は美しい風景の展覧会で何も触られていない受賞作品を見ると、いつも落ち込んでしまう」。カプリは“ein Unding”(カプリは不条理である)(1906年12月11日)。「私は間違ったドイツへの憧れで作ったカプリのことはあまり気に入ってない。」(1906年12月13日「ここは人間も風景まらないも同じ位つまらない、そして安い褒め称えが集まっている。」(1907年2月14日)

それに冬の寒さ、冬嵐についての文句が、いくつかの月の光と海の協力的な気持ちとよく混合する。

大きな転向が起こったと言えるのは、1907年の2月16日、リルケがアナカプリを通って、素晴らしい海と景色のある西の先端ミグリエラ(Migiliera)へ歩いた時である。そしてその夜、“今、目を閉じて”で始まる『ミグリエラ』という長い詩を書いていた、もしかしたら彼はマノン伯爵夫人と一緒に過ごしていたのかもしれない。

リルケはアナカプリを発見する

リルケはこの時からアナカプリを“発見”し始める。ミグリエラまで行き、アナカプリの上にあるモンテソラロ(Monte Solaro)の沿いで上がる。そしてそこには“ギリシア”の海の眺めがある。それは大昔の景色で、オデュッセウス(Odysseus)が一度セイレンの美声を聞く為、ロープで帆柱に縛らせた所だと想像している(1907年2月18日手紙でそう書いていた)。リルケはその上にサンタ・マリア・ア・セットレラというチャペルで“忘れられた”マドンナ(聖母マリア)を発見し、マドンナにささげる軽く純真な詩の文集に時間を費やした。彼は短期間、毎日チャペルまでの長い上り下りの険しい道を散歩をした。

もしかして彼れは、カプリにある“薔薇の家”に少し引き引きこもってしまったか?だから、アナカプリまでの散歩は開放的な感じがしたのかもしれない。どちでも、リルケは他のドイツ人と共に、“ピアゼッタン”のすぐ側にあった変な名のズム・カレル(Zum Kater Hiddigeigei)というビアホールで時間を過ごさなかったことは確かである。その代わり彼の手紙で、パリとその場所で想像のした中に、彼の考えていた大きな孤独さに戻りたいという気持ちに気づかされてしまう。 

リルケは一般的な良いドイツ人観光客ではなく、むしろ一人で安全な近場を散策したい非観光客で、そして執筆することに一番集中したのである。 

カプリについて書いたことは色々な面白い面でカプリの文学と異なっている:舞い上がるような自然描写と狂喜的なで観光客らしい感覚と神話的な想像と淫ら化された社会の環境は入っていない。むしろリルケのカプリは、弁解か舞台装置を使って、“本当に”の哲学的な部屋を設立する。その部屋へ届くには、世界と出会って探検するより世界から撤回しなければならない。それとも、探検する為撤回する。リルケのアナカプリとモンテソラロへの散歩は、それとなくカプリ市の無限実さから離れて、それに手紙に記述されている「一つの世界と現実いっぱい」(1907年3月1日)という物と出会う。実は、現代でもそういう経験が出来る:

“ピアゼッタン”の周辺のカプリ市で沢山観光客、高級店とユーロトラッシュ(ヨーロッパからの貧乏な人々)が、横道に少し進んだらすぐにイタリアにある普通の村と似ている。

アナカプリまで進むと特に冬の頃、よく効く対比を受ける。それは、カプリはほとんど沈黙だが、アナカプリでは普通の活発さだった。また観光客の流れを安定させる為、モンテソラロの頂上までケーブルカーを使うことは、もう一つの対比を見せる。しかし、リルケのチャペルにあるマドンナへの道を通り過ぎたら、ここでの現実はいつもの通りであることを容易に思い巡らせる

リルケの哲学

リルケの現実の道具はいつも通りの哲学であった。それで自分の新たな世界を作り、そして本当の世界より本当かもっと良く、物と部屋を現実的にする世界がある。カプリで過ごした間に、『ナポリとカプリからの覚え書』(Aufzeichnungen von Neapel und Capri)と多くの叙情詩を書き、その中の8編の詩は『新作の詩』(1907年出版)を二冊出版した。

この中で一番有名な詩『海の賛歌』

LIED VOM MEER

Capri. Piccola Marina

Uraltes Wehn vom Meer,
Meerwind bei Nacht:
du kommst zu keinem her;
wenn einer wacht
som muß er sehn, wie er
dich übersteht:
uraltes Wehn vom Meer,
welches weht
nur wie für Ur-Gestein,
lauter Raum
reißend von weit herein …

O wie fühlt dich ein
treibender Feigenbaum
oben im Mondschein.

海の賛歌

海から伝統的な悲風、
夜中の海風:
誰にも届かない;
誰かが起きたら、
彼は貴方に耐えることを
分からないといけない:
海から伝統的な悲風、
がないている
原生の山の為だけのように、
綺麗な部屋
ここから遠くまで引き裂かれている...

貴方みたいに感じる
苦労しているのイチジク
月の光の上に。     

悲風と風のなき

私達は夜中海に向い、島の南側マリナピッコラ(Marina Piccola)に居る。
哲学者には別に小さな港が全く見えないが、海からの悲風は聴こえる。

ドイツ語のウェン(Wehn)は悲風に翻訳したのは風でも、悲嘆の声や産みの苦しみの響きもする。

そのリルケの言葉はまた15年間離れ、オルフェウス(Orpheus)のソナタ(I:3)で風と共に戻ってくる。カプリからの複数の詩と叙情詩と同様に、この詩はオルフェウスのソナタの魔法世界へ指している。それでも、オルフェウスのソナタの軽さがないことで、バラット(Varat)の耐えられない程の重さの記憶を刻むみたいに軽風が吹き、悲風が原生の山からずっと吹いている事で異なることも分かる。

哲学者は母音押韻と半ライムで詩も“原生の山”の権威を貸し、それで風のなきになる。風は“遠くから”来ているが、でも“引き裂かれている”ということは多分風は元の“綺麗な部屋”から“引き裂かれている”ようになっていることである。だから“誰にも届かない”は破片的にしか届かず、誰かを“起こし”たら“耐える”しかないのだ。

ドイツ語の“übersteht”は陰影をつけるや影と言う意味を持っているので簡単に理解できないが、ここでは耐えるという意味を持つ。

この“耐える”ということは伝統的な悲風の“原生の山”と“綺麗な部屋”の督促状で及ばれていることと、結局そこから離されることで条件づけられた。リルケにはこれが基本的な経験であり、その詩には普通に存在しないもっと本当の現実と繋がりを設置する。その詩は1907年一月、夜中のマリナピッコラに居たリルケの寂しさと暴露をに“耐える”方法であり、それに“耐える”という事務も含まれている。もっと本当の現実、その悲風。

リルケのカプリの詩ははっきりした事を吸収し、その変わり哲学的な部屋を作り、もっとも大きく、そしてもっとも凄く永続について近づいていて、“綺麗な部屋”“原生の山”という本当の現実のことである。でも、リルケ自身は夜中の海か孤独なモンテソラロを登る理由は、多くの観光客が騒いでいるカプリから逃げたり、自己発見し話す事の闇と沈黙を見つける為である。

メルベルグ・アーネ博士 (Arne Melberg)
オスロ大学で文学専門家